ホモは実は究極の愛なんじゃないか問題

はぐメタです。ブログをやっている目的?って第一は日頃の思ったこととか考えたこと、あとは出来事を忘れんうちに残せたらいいなって言う自己満でやってますのでまぁたまには深い話(先程のバスケのやつ)も書きます笑

これが表向き、でもうひとつ目的が実はあって私が師として仰ぐK氏というおじいさんがいます。その人ブログやってるんやけど思ったこととか書き連ねてやはや10年以上、なんと3000をも超える記事を書いてました。これには負けてられない。そんな思いでやっとります。

 

はぐメタのリアルタイム思考

~ホモは究極の愛なんじゃないか問題~

なんやなんや多様性という言葉にあやかりLGBTQ+に対する社会的な認知ってのはそこそこ広がったのかなとおもいます。(いい意味でも悪い意味でも笑)こないだも朝の奈良公園の通学中に全身虹色の外国人ニキカップルが歩いていましたがこれもまた時代なのかなと思ったり。

誰かを好きになるということはごく普通のことです。

で少し話は変わるのですが、我々が潜在的にやっていること、やり続けていることとは何か?を考えた時それは種の維持になると思うのです。我々と言っても生き物全般に言えますが、子孫を残すということは生き物としての本能的な行為なのです。では、子孫を残すとは?そこには交配は不可欠、でもちろん生き物の中には無性生殖するやつもおるけど、有性生殖をする種は言わばオスとメスは必須条件なのかなと思う。この話の流れで言えば生きるための本能として異性間での結び付きがあるのではないかと推測できる。

ここで言いたいのは、異性間の愛の中には本能的な”なにか”があるのではないか。(もちろん好きとな言うことに変わりは無いよ!)生き物という括りで見るなら、まぁ至極当然なのかなと、、、

そう考えると同性間の愛というものは生き物としての本能とはまた別のように感じられる。どっかの議員が生産性は無いとかいう言葉で表現していたが(これはクソ)同性間では子孫を残すことは生物的にできない。めっちゃ極端な話、急に世界人口の半分が同性に惹かれあい結ばれるなら人間という種族の数は減る。これは生き物の本能としては避けたいことである。

しかし好きになり愛するのである。本能に反する愛、生き物の本能には従わない私の好き、いいじゃないか!だってホンマにその人のことを愛しているのだもの!

と思います。

「普通」という言葉は時に残酷です。生き物の本能的な話をするなら普通は異性間で、とかね、なんなら私はLGBTQという言葉も嫌いです。好きになる対象が違うだけで「普通」とは何か違う名称で呼ばれて、、、普通って一体なんだろね。

つまりは区別するなと、別にすきに違いは無いし、誰と誰が結ばれようが愛は芽生えるのです。好き言う言葉、知らんけど女って字が入ってるので一応語源を辿ればなにかジェンダー的な意味があるのかもしれないが(詳しく知らないのでごめんちゃい)、愛という時には一方の性別を指すような字は入ってない、心(気持ち)しか入ってない、自分のすきという気持ち大切にしよう。

おやすみなさい。